猫科のけだもの


向田邦子『眠る杯』(講談社文庫)に、こんな文章があった。

それでなくても猫科のけだものが好きで、いい年をして動物園へゆき、ライオンや虎、チータ専門にのぞいてくるという人間だから


向田邦子は、どうやら猫派だったらしい。
なんとなく分かる気がする。そして、ちょっと嬉しい。
というのは、私自身もどちらかといえば猫派だからだ。
犬派に憧れている猫派、と言った方が正しいかもしれないけれど。


猫派か犬派か、という話題は、割と盛り上がる。
ときどき問うてみると、私の周りには猫派が多いことがわかった。
そのとき聞いた「なぜ猫派なのか」の理由をまとめると、
<散歩に連れて行かなくてもいい>
<きまぐれで、いつも遊んでくれるわけではないけれど、たまにやってきてくれると嬉しい>
<好き勝手やってるようで、こちらが悲しんだり辛そうにしていると、それが分かるのか傍に来る>
<犬はかわいいけれど、犬が飼い主にくれる愛情に応えられるか自信がない>
といった感じだった。


私も、概ねそういう理由で猫派だ。
でも最近、猫派は難儀な人生を歩むのではないかという感じがする。
強い自由への志向。
他者への諦め。
きまぐれな人が時折見せる優しさに、喜んでしまう。
…なんだか結婚とか しなさそうな感じがする。


恋人はいたけれど結婚せず、自分の仕事をしていた向田邦子は、なんとなく猫っぽい。


先日、めずらしく犬派の人にあった。
とてもいい人で、いい家族を持っている。
こまめで誠実そうで、愛情も安定供給している(のだろう)。
これが犬派なり。と深く納得するような感じの人だった。


その人は犬の愛情を受け止められるのだろう。
1日数回の散歩の手間などのリスクを負って、
忠実に自分を追いかけてくれる犬の愛情に応えるのだろう。
逃げることなく。


私は、逃げているだけかもしれない。
散歩などという手間のリスクや、深くて切なくなるような愛情を受け止めることから。
それは結局、面倒なことから避けたり、
「できない」自分を変えようともしないで弱い自分を肯定しているだけじゃないのか。
現実をしっかり見つめず、避けてるだけなんていいことではない。
…だんだん情けなくなってきた。


だから私は、犬派に憧れている。
犬好きになりたい。犬好きっていいな。と思って。


ただ残念ながら、
これからも猫派なんだろうな。