『沖縄映画論』四方田犬彦、大嶺沙和編 (2008年、作品社)

訳あって
ここ2、3日、沖縄のことばかり考えている。
極めつけに、この本だ。
沖縄の登場する映画について 私が感じていたかすかな疑問が
方向性としては あながち間違いではないらしいことが分かったものの、
なんとも複雑な思いにもさせられた。


『沖縄映画論』は、主に映画の中で沖縄が如何に語られてきたかについて
8つの論文とシンポジウムにおける討議で論じられている。
黒澤明作品をリメイクした森崎東監督の『野良犬』における沖縄の現れ方と風景論、
高嶺剛監督における演出と沖縄そのものの重なりあいなど、興味深く読んだ。


「あらゆる『私』の内部には〈不適切な他者〉がいる」 
『月が赤く満ちる時』トリン・T・ミンハ 1996年 みすず書房


は、覚えておきたい言葉だったし、
巻末の「沖縄関連映像リスト」も役に立ちそうで嬉しい。



ただ、一点。


対談を読むとよく分かるが、この本で特に論者の熱がこもるのは
中江裕司監督と高嶺剛監督について語られる時だ。
中江裕司監督へは否、高嶺剛監督へは賛というのが、論調の傾向にある。


大雑把にまとめると、
中江裕司監督は『ナビィの恋』『ホテル・ハイビスカス』などの作品で
<本土の癒しの場所としての沖縄><美しい風景、素朴で笑顔の人々>といった
特に90年代以降さかんになった、主に本土から沖縄への認識の“ある典型”を作り上げたことが、非難されている。
作品の中には 政治や史実が洗い落された沖縄しかなく、中江監督のマーケティングの才もあり 幅広い人に受け入れられた、と。
一方、
ウンタマギルー』『パラダイスビュー』などの高嶺剛監督の映画は、
実験的な語り方を用い、
石垣島出身であるが京都在住という自身の立ち位置を明確にした上で(ちなみに中江監督は、京都出身で現在沖縄在住)、
作品を作っていることなどが評価されている。
けれど 現状として、多くの観客に見られているのは中江監督の映画で、高嶺監督の映画はそうでもない。


高嶺剛監督の作品を評価するのはともかくとして、
中江監督批判は ちょっとやりすぎなのではないかと感じられた。
言葉遣いともども、なんだかこう、
冷静さを欠いているかのような印象を受けたのだ。


確かに、中江裕司監督の映画の中の沖縄は 大体において鮮やかで楽しい。
本土からやってきた若者 あるいは 沖縄出身であるが何らかの理由で戻ってきた若者という、
沖縄を良く知らない人=本土の人の視点が用意され、
そこから見える沖縄には ファンタジーに近い世界が広がっている。


ここで私が知りたいのは、
なぜ中江監督が そんな沖縄を撮り続けるのかということ、
なぜ中江監督の映画が沖縄の人々にも広く受け入れられたのかということだ。
(……ここには、さらになぜ中江監督の映画が本土の人々にも広く受け入れられたのか、という問いも付け加えるべきだろうか?)


沖縄の過去について、もちろん中江監督が何も知らないわけがない。
数行であるが http://www.sogotosho.daimokuroku.com/?index=intdok にも語られてる。
それでいてなぜそこには、中江監督の映画には沖縄の過去がないのか?
本の中では 高嶺監督がシンポジウムに参加し発言の機会が与えられている一方、
中江監督にはそれがなくインタビューもされていないことが気になる。
また作品への沖縄の人々の視線については
高嶺監督の映画に対するいくつかの芳しくない反応がシンポジウムの中で挙げられていたが、
それらはどちらかといえば 
「映画が理解されなかった」「沖縄の人が予期した/見たい映画ではなかった」と 片付けられていたのは 少々残念だった。
たとえば、中江監督の映画の中の沖縄や 中江監督と高嶺監督の映画への反応を
“現象として”分析・考察するという方法もあるのではないかと思うのだ。


私自身 中江監督作品に登場する沖縄は、<中江裕司監督が描く沖縄>であると受け取っていた。
監督の沖縄がどのように生まれたのか、
なぜ沖縄をそのように描かれているのか、お聞きしたいなあと思っている(本当にできたら!)。
そして何より、
中江監督は あくまでエンターテイメントな映画を志向するではないだろうか。


映画への姿勢が そもそも違う二人の監督を並べて、
そして そのうちの片方がいない シンポジウム会場で、
「もう、中江ケチョンケチョンですね。おい、中江、いるか?会場にいたらでてこいよ(笑)」なんて言ってしまうのは、
あまり美しくないと思うのですが。


沖縄映画論

沖縄映画論

でも、本自体はおもしろい。
中江監督は沖縄に映画館を作られるなど素敵なこともされていて、私の好きな映画監督です。