この世の そこかしこに 奇跡は埋もれているのに。『フィッシュストーリー』2009年 監督/中村義洋 出演/濱田岳、大森南朋、多部未華子、森山未來、伊藤淳史


 伊坂幸太郎に手を出すな。

 そう前々から思っていた。伊坂幸太郎の小説は、どれも面白く、どれも魅力的、そして何しろ売れている。映画にしたいと思う人が多くいることは、容易に想像がつく。舞台は大半が日常の世界であるから、映像化のハードルが低そうだと思われるせいもあるかもしれない。
 けれど、伊坂幸太郎の小説は小説だから面白い。なぜなら単にストーリーの面白さや凝った構成だけが、その魅力がではないからだ。たとえば「重力ピエロ」にある科白「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」。この言葉は、伊坂作品の良さを端的に表わしている。深刻なことを深刻に、重々しいことを重々しく伝えることは、そう難しくない。でもそれを、陽気に軽やかに、さりげなく伝えてくれるところに、伊坂幸太郎のすごさがある。「ゴールデンスランバー」や「砂漠」など彼のどの作品にも描かれる青臭いとも言われかねない人間への信頼や、「重力ピエロ」のレイプや「チルドレン」の障害者など様々なタブーを扱う果敢な倫理観はそれだけでも魅力的だが、そういった深刻で重い、でも生きていく上で重要なことを、洒落た科白を交えてあくまで軽やかに描くことが素晴らしい。そして「アヒルと鴨のコインロッカー」に代表される、文字だからこそ描けるトリックや仕掛け。これらが伊坂作品を読む幸せを膨らませるのだ。

 今までの映像化において、伊坂作品の良さを十分に理解し活かしたものは少ない。家裁調査官と彼らが出会う子どもたちを描く「CHiLDREN チルドレン」(06)は時間軸を交錯させた連作短編から成る物語だが、映画では作者自身が「短編小説のふりをした長編小説」と語った原作の構成の効果を全く無視し、単なる長編にしてしまった。障害者である登場人物の一人を描くことを避けたためこの物語の妙味も失われ、何のために映画化したのか理解できない。特殊能力をもった個性的な登場人物によるスタイリッシュな犯罪もの「陽気なギャングが地球を回す」(06)も、洒落た原作の味わいを妙にコミカルな映像に落し込んでしまい、無理な原作改編と安直な恋愛要素の追加で、なんだかよく分からないものになってしまった。7日間で人間の生死を見極める死神を描いた「Sweet rain 死神の精度」(07)は、エピソード毎に異なる時間の表現が幼稚だったり、安っぽいCGを取り入れたりと映画そのものにセンスがない。この物語は音楽が鍵となっているが、特に大切なストーンズを使用できていないところが痛かった。
 そういった映像化群の中で唯一良かったのが、本屋襲撃の裏に隠された友情を描くミステリー「アヒルと鴨のコインロッカー」(07)だ。ボブ・ディランの「風に吹かれて」を歌いながら引っ越し作業をする主人公の姿が冒頭に登場するが、その同じ姿が後半再登場した時に全く違う意味合いでそれを見せることに成功した点に、この映画の良さを感じる。映画で軽やかに扱うのは難しそうな性に関するエピソードの省略や、文字だからこそ面白いトリックの映像化に付随するいくつかの無理は残念だったが、伊坂作品の世界観に合う濱田岳の発見や勇敢さを体現した関めぐみなどのキャスティングとオール仙台ロケという画づくりの良さ、そして脚本の頑張りもあり、小説の世界観を大きく損ねない映画化だったと思う。その「アヒルと鴨」の監督・脚本を手がけた中村義洋により、再び伊坂幸太郎の小説「フィッシュストーリー」が映画化された。

 実は、中村義洋監督には個人的にも注目していた。きっかけは、パラレルワールドに迷いこんだ姉弟の一風変わったSF「ルート225」(05)だった。主演の多部未華子と岩田力の好演が光る佳作だが、何より良かったのは、一見地味な原作を派手に演出することなく淡々と描いた点と、物語に重要な日常の風景を丁寧に取り入れた画だった。原作の持ち味を理解し映像化できる、読解力と表現力のある監督ではないかと感じたのだ。「チーム・バチスタの栄光」(08)以来一気にメジャーになった感があるが、「ジャージの二人」(08)はともかく、そもそも原作自体の面白さに疑問を感じるがその脚色に監督の意向が反映できなかったという「バチスタ」と、前作と同じ設定で戦わざるを得なかった「ジェネラル・ルージュの凱旋」(09)は残念ながら振るわなかった。でも、私は中村監督を信じている。好きな映画に「ファーゴ」「夫たち、妻たち」「レザボア・ドッグス」、好きな俳優にハーヴェイ・カイテルスティーブ・ブシェーミとドミニク・ピノンを挙げる人を、私と趣味が似ているからというだけでなはく、信頼できると思うからだ。次こそ、いい映画を撮ってくれ。祈る気持ちで、「フィッシュストーリー」を見た。


 結果的に、ほっとして劇場を出ることができた。むしろ、ちょっと高揚して歩いていた。劇中歌の「フィッシュストーリー」を歌いながら。


 売れなかったバンド・逆鱗の歌「フィッシュストーリー」を軸に、二十年数前・現在・三十数年前・そして十年後の物語を絶妙に交錯させて描く原作は、短編小説でほんの数十ページしかない。これをどう2時間に膨らませるか。心配していた脚色は「ルート225」、「奈緒子」(08)の林民夫によるものだが、原作のエピソードの重要な部分はそのままに、原作と関連づけた「音楽」「正義の味方」を鍵に話を膨らませて、結果的に手堅い物語になっている。世界の終わりを追加した部分には同じく伊坂幸太郎の連作短編である「終末のフール」を思わせるし、冒頭の車椅子の男性が駐輪している自転車を倒していくシーンには伊坂幸太郎らしい毒気(でも真実)を含ませ、伊坂作品にも目配りした改変だと感じる。
 映画の始まりは、2012年。彗星の衝突によりあと5時間で滅亡する地球で、唯一営業しているレコード店が舞台。マニアックなマスターが取り出したのは、無名のパンクバンド・逆鱗の「フィッシュストーリー」だった。続いて、1982年。気弱な大学生が、ドライブの最中に聞いた「フィッシュストーリー」には、謎めいた無音の部分があった。彼はその日、ある女性から「いつか地球を救う」と予言される。そして、2009年。舞台は海の上。一度眠ると大抵の事では起きない女子高生が、フェリーから降り損ねてしまう。泣きじゃくる彼女に、「正義の味方になりたかった」と語り始めたコック。しかし二人は突然のシー・ジャックに巻き込まれる。時代はさかのぼって1975年。早すぎたパンクバンド・逆鱗の、最後のレコーディングが始まろうとしている。その歌は、「フィッシュストーリー」。


 原作の空気を壊さないという意味でこの映画ではキャスティングと、特に音楽が重要だ。けれど、両者とも外していない。キャストは、「アヒルと鴨」に引き続き登場する濱田岳、イノセントな感じが原作の雰囲気に合う多部未華子森山未來伊坂幸太郎原作映画に出演するのは2度目で本作では2役を見事にこなした大森南朋伊藤淳史波岡一喜らバンドメンバーも誰一人間違っていないし、どこをとってもいい。音楽も然り。中でも劇中歌「フィッシュストーリー」は物語を通じて流れるので、これがひどいと話にならなくなるが、さすが斉藤和義だ。何度聞いても飽きない楽曲に仕上がっていて、バンドの演奏シーンもよく、ただでさえ滑稽無糖な構造の物語に説得力を与えてくれる。映画では5つの時代が描かれるが、そのバンドが登場する1975年のパートは青春物語としてよくできている。リーダーを演じる伊藤淳史の熱さ、メンバーの焦燥感、大森南朋演じるプロデューサーのカッコ良さ。「この曲はちゃんと誰かに届いてるのかよ!」と、波岡一喜演じるボーカルがレコーディングで叫ぶシーンには、ちょっと震えた。そしてレコードがほしくなった。
 劇中の小道具の作り込みも、きちんとしてある。「フィッシュストーリー」の歌詞の元となる本のイラストレーションやロゴと書体の選び方、「フィッシュストーリー」のレコードジャケット、カセットテープの手書きのタイトル、そのテープを収納するケース、画面に登場するゴレンジャー、缶ビールの缶などなど、細かい部分ではあるが疎かにされていないのが嬉しいし、細部が映画全体の雰囲気を支えていることを改めて感じられた。
 そうして描かれた映画は、何より物語が面白い。科白がかっこいい。当然と言えば当然だ。原作が何しろ面白いのだから。それぞれの年代で描かれるエピソードが、どう絡み合い未来へつながるのか? あの謎は何だったのか? 伏線に身をまかせていると、最後の最後にもう一度、「フィッシュストーリー」が流れる。曲にのせた爽快な種明かしを楽しみにして損はない。


 けれど、不満がないわけではない。この映画では2012年ではレコード店のカウンターの上を、1975年ではテーブルの上を、上方から見下ろすカットが繰り返し登場する。どうせならばこの反復を他のエピソードでも使用してほしかった。2009年の、女子高生に差し出されるタルトは上から撮るべきだったと思う。せっかくの特徴的なカットがもったいなく感じた。そして何より、先だって引用した「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」という伊坂作品の根底に流れる精神についてだ。

 深刻なことを陽気に、哀しいことはさらりと、重要なことは軽やかに。伊坂幸太郎の良さはそこにあると再び繰り返す。原作でも、「フィッシュストーリー」という歌につながって、登場人物が地球の大きな危機に関わることになる。けれど、そのことはもしかしたら語られることがないかも知れないと匂わせて、物語は終わる。30年の時を経た希有のつながりは、ないことになるかも知れないのだ。このラストは、なくなるかもしれない物語を読んでいたという不思議な感覚を読者に覚えさせ、伏線をはりめぐらせ構成に凝った作者の労力すら笑顔で無にする姿勢のかっこよさを感じさせ、そしてそんな素敵な奇跡すら埋もれてしまうこともあると思わせた。けれどそれは、残念なことではない。この世の中にはそこかしこに、奇跡が埋もれているかも知れないと教えてくれているのだ。
 そんな原作のさりげなさに比べると、映画はいさかか大仰だ。これでは、「フィッシュストーリー」の功績が歴史に刻まれかねない。映画化に際して「映画だから」と、それなりのサイズの大きな打ち上げ花火を打ち上げてしまったように思う。もっとさりげなく、軽やかでもよかったのではないか。その他の部分の出来が悪くないだけに、そんなわがままを最後にいいたくなった。

 
 伊坂幸太郎に手を出すな。といったところで、既に数本の公開が控えている。特に伊坂作品の最高傑作「重力ピエロ」、いろんな意味で現時点での集大成といえる「ゴールデンスランバー」と、重要な作品が続く。深刻なことを、どう陽気に伝えてくれるのか? 一介の伊坂幸太郎好きとして、祈る気持ちはまだ続く。


フィッシュストーリー

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素敵な ほら話。