これは「ガール」の物語。「ホノカアボーイ」


映画「ホノカアボーイ」は、日本人の男の子レオがハワイ島の小さな町ホノカアにやってくるところから始まる。
最初は、恋人と。半年後に、彼女に振られて一人で。
映画館で映写助手として働き始めるレオは、おおらかでくいしんぼうの映画館の女主人エデリや無口だけど優しい映写技師のバズ、
エロ本をいつも見ているおじいさんコイチ、魅力的なロコガール・マライア、そして日系のレディ、ビーに出会う。
ビーにとってレオは、食べ物をおいしそうにたくさん食べてくれる大きな猫。
ビーは「明日もここで晩ご飯を食べていきなさい」とレオに告げる。懐かしいような愛おしいような、ホノカアでの毎日が過ぎていく。
原作は吉田玲雄の同名小説。
実際にホノカアで映写技師をしていた著者が出会った愛すべきホノカアの町と海、そしてそこに暮らす人々との日々が、
なんとなくアメリカンで軽やかな男の子の一人語りで綴られている。

 
まず、かわいくないことを書いてしまう。
おいしい食べ物。夢のような風景。素朴だけど素敵な生活。気のいい人々。ハイキー気味の画像。
ホノカアボーイ」のパッケージングは完璧だ。
「ひとつ。映画を見るときは先入観なしで」を信条にしているはずの私が
ホノカアボーイ」のポスターにフジテレビとロボットという名を見つけて、
「ははあん」と穿った見方をしてしまっても許されると思う。しかも製作が亀山千広とくれば。
荻上直子監督の映画「すいか」「めがね」のヒットに、「クウネル」「天然生活」など“何気ない毎日を大事にする”系雑誌の成功、
急増したカメラ女子雑誌ではお馴染みの露出オーバー気味のかわいい写真の流行などなど、
この映画がきちんとマーケティングした上で狙いを定めて企画されたことを感じてしまう。


そしてそれらは、「ほぼ」完璧に映画となった。町並みやインテリアやファッション、人々など、
原作にあることないことひっくるめて魅力的な小道具や登場人物を上記のマーケティング通りに映像化されている。
ホノカアの町は極めて魅力的で、「同性愛」Tシャツなど時折クスリとさせられる微笑ましさもあるし、
レオがビーの料理の写真を撮る時に使うのはカメラ女子雑誌御用達のポラロイドカメラで、
その写真は壁にぺたぺたとマスキングテープ(ここも何気に重要)で貼られていく。
ブログのネタにと写真を撮りまくりブログを頼りに旅行をする、身につまされるような日本人観光客の姿までおりまぜて、
どこもかしこも抜け目がない。


問題はこの映画が魅力が、完璧からこぼれ落ちる「ほぼ」の部分にあることだ。
ホノカアボーイ」のアピールポイントとして「おいしそうな料理」が挙げられるけれど、見た人はもどかしくなかっただろうか? 
確かに料理は映し出されるが、ほとんどが遠目なのだ。どんな料理か、よく見せてくれない。
重要なはずのビーがレオに初めてつくる料理も、さらに重要なはずのレオの誕生日の料理も、よく見えない。
いわゆる“シズル感”がほとんど感じられないのだ。
この映画にとって、料理って実はそれほど重要視していないのでは?と思ってしまうほどの映像が続く。
しかし思い起こせば、この映画はアップが少ない。いずれもカメラは引き気味で、風景を含めシーンを広くとらえている。
何故なのか不思議だったが、撮影を担当した市橋織江の写真を見て少し分かったように思った。
市橋織江は広告を主に手がける写真家で、その露出オーバーの淡い写真には風景の中に人をとらえたものが多い。
ホノカアボーイ」の映像には、常にホノカアの空気が映されている、ということなのだろうか。
個人的には料理を楽しみにしていたので少々フラストレーションが溜まったけれど、宣伝はともかく映画の中では、
料理を分かりやすく売りにしない作りが印象的だった。
では、このホノカアの空気の中で見るべきものは何なのか。
それは、きっと、ビーなのだ。


映画「ホノカアボーイ」は、ボーイの話ではない。
小柄でキュートで、その細い手で魔法のようにおいしい食べ物を作ってしまう、ガールの話だ。
ガールとはビーのこと。ビーの料理、ビーのいたずら、そしてビーの淡くていじらしい恋に、見る人はきっとひかれてしまう。 
この映画で魅力的なのは、なんといっても彼女だ。


でも、彼女はキュートなだけではない。謎めいた過去には、どうやら男にダマされた痛々しい記憶があるようだ。
そのことは、ビーが見つめ続ける横倒しに置かれたテレビで放送されているドラマで、コミカルに匂わされている。
そんなビーが、レオを気に入る。そしてそれは、だんだん恋に近くなる。
けれどレオは、年頃の男の子らしくロコガール・マライアに恋をして、ビーとの食事の約束をすっぽかしもするのだ。まったく、男ってやつは。
とうとうビーの気持ちはマライアへのジェラシーに変わり、ある事件を起こしてしまうのだ。それはちょっと、情念に近かった。


この原作にはない事件を作った製作サイドを私は軽く恨むし(だって、ビーがかわいそうじゃん)、
なぜこんな展開を選んだのかも疑問に感じる。
けれどこの映画で話題にされるべきなのは、おそらく「かもめ食堂」や「めがね」が避けてきた恋愛、特にこの場合は老いての恋であり、
それを通じて浮かび上がる人間の生々しさではないかと思うのだ。
それは「おいしい食べ物。夢のような風景。」というパッケージングでは、きれいに包みきれない。だからこそ、忘れられない。
景色も、食べ物も、人間も、全てはハイキー気味に捉えることで白くとんでしまい、
美しくない箇所や汚い部分まで淡く見えなくなってしまう。
けれどもそこで見えなくなってしまうものが、ビーにはある。生々しい、人間の姿だ。
彼女のせいで「ホノカアボーイ」は、おいしかった煮魚の小骨のように、胸のどこかにひっかかってしまうのだ。



追記
*ビーを演じた倍賞千恵子のはまり具合とともに、
最近びっくりするほどの大らかな女性像を演じる松坂慶子の存在も「ホノカアボーイ」の成功の理由だと思う。
大阪ハムレット」に続き、擬音をつけるとすれば「どーん」という感じのほがらかで大きな感じの人物像は、ホノカアの感じにぴったりだ。
飛んでいって彼女の売るマサラダを食べたくなってしまう。


*原作小説では、映画よりも丁寧にビーの料理について書かれているが、それ以上にたくさんの映画も登場する。
もののけ姫」「アイアン・ジャイアント」「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」に、ジェ二ファー・ロペス。
映画についてのおしゃべりと映画館で映画を見せることの幸せが描かれた部分には、むしろ映画好きが喜んでしまうかも知れない。
私は小説を読み終わって、思わず「ウェディング・シンガー」を借りにレンタル店に走ってしまった。
だって、ドリュー・バリモア、かわいいんだもの。