切ない2DK「今、僕は」


20歳を過ぎても仕事に就かず、自室に閉じこもっている悟。ゲームと漫画で時間をつぶし、食べ物がなくなればコンビニに行く。
一緒に暮らす母親は、息子をとがめることができない。停滞した日々が続いていく……
「今、僕は」(07)は、そんな彼の生活をひたすら見つめ続ける。
監督・主演・脚本・編集・制作を手がけたのは、この映画が監督第一作目となる若干20歳半ばの竹馬靖具
映像に語らせる作りといい題材の切り口の良さといい、デビュー作とは思えない程の出来映えだ。


撮影は全編手持ちカメラで行われ、背後から悟を追いかける画にはドキュメンタリーと見間違うほどの臨場感がある。
この映画には文字やモノローグによる状況解説や、音楽などによる心理描写は一切ない。説明しない分、映像が雄弁だ。
漫画やゲーム、ジャンクフードとペットボトル、ゴミが散乱している悟の部屋。
白くて細長い扉が、その部屋と数少ない外界である台所、そして母親とをつないでいる。
苛立ちを示す時、彼はその扉を乱暴に閉めてみせる。
一方で、飲み物とお菓子が無くなれば扉を開けて律儀に台所に行き、母親の目の前で冷蔵庫を物色する。
扉を通した悟の行動から、疎ましく思いながらも完全には拒絶しない、母親との間のかすかな甘えのある距離感が分かる。


昼間、悟は母親が整えた食事を無視しコンビニに向かう。狭い部屋から外に出たはずなのに、何故か戸外には閉塞感が漂う。
彼が住むのは、地方の一都市だったのだ。山々に囲まれ空が広い、都会では決してなれないけれど田舎でもない微妙な位置。
彼の抱える問題を都会のせいにできれば楽なのに、この映画はそれを許してくれない。
地方の片隅で大きな橋を渡る悟の姿に、問題の根の深さと、安直に題材を片付けようとしない作り手の姿勢を感じた。
着いたコンビニではかつての同級生に出会う。就職し女の子を連れている彼に、悟は受け答えすらまともにできない。
映画の開始から早々に、“見せる”ことで悟の立場と悟自身が示される。
端的で、鮮やかだ。


その後も「引きこもっている時」「面倒なことを言われた時」など
その時々の状況にある悟を“見せる”ことで描き、まさに“今、僕は”が淡々と積み重ねられていく。
そこには、安易な「ニートの社会復帰への物語」はない。
例えば、この映画には悟と対立する立場の人間が登場しない。悟を叱咤する者も、軽蔑や拒絶する者もいないのだ。
そういった人物を悟と衝突させて、物語を積極的に展開しようとはしない。
悟を外に連れ出そうとするたった一人の人物、藤澤ですらそうだ。
「悟クン、悟クン」と呼びかけて世話を焼いてくれる彼は、ただただ優しい。
けれど、次第にその存在が面倒に思えてくる。“ひきこもり”の悟を草野球に誘ったり、強引に始めさせた仕事の感想を無邪気に尋ねたり、
藤澤のすることは善意が先走って常に上滑りしているのだ。
彼がちぐはぐな親切を行うたび、映画はそこだけコメディになる。
物語の後半に起こるある事件ではついに笑いを通り越し、彼が文字通りゾンビのごとく悟を追う姿はまるでホラーだった。
懸命な彼には申し訳ないが見ていて気味が悪く、そんな藤澤に「善意って何だろう?」と思わされる。


彼の存在が象徴的だが、映画の中での悟と周囲の人々との関係は生ぬるい。
藤澤も母親も職場の人も悟に妙に優しく、あまつさえ「ごめん」と頭を下げる。
悟を叱らず逆に謝るという奇妙な状況が、この映画の見せようとするリアリティなのだろう。
悟はどう生きていけばいいのか分からず、周囲もどう接していいのか分からない。
悟のような人間に周囲が必ずしも積極的に関わるわけではなく、たとえ積極的だとしても善意が特効薬でない場合もある。
消極的な人間関係がいわゆるニートのような存在を知らず望まず育んでしまう、
そんな状況を描いたことがこの映画をユニークなものにしている。



竹馬監督は「ロゼッタ」「ロルナの祈り」のダルデンヌ兄弟に影響を受けたという。
確かに、「今、僕は」での手持ちカメラによる映像や、
解説や音楽がなく映画の進行とともに“見せる”ことで伝えるスタイルは、ダルデンヌ兄弟を思わせる。
その試みは成功しているといえるし、評価される部分でもあるだろう。
けれど私が竹馬監督に期待したくなったのは、映画中盤の忘れがたく切ないシーンのせいだ。


ある日突然母親が亡くなってしまい、ひとりぼっちになった悟が後日母親の部屋に入る場面がある。
二人の住む家は2DKなのだが、ただでさえ構成要素の少ない映画であるのに関わらず、母親の部屋をそれまで一切登場させていない。
母が亡くなって初めて、悟はその部屋に足を踏み入れるのだ。
悟の部屋が白っぽく無味乾燥であったのに対し、母親の部屋はあたたかい色の光に満ちている。
この映画の中で、ここにしか存在しない色だ。
悟は、その中でじっと立ち尽くす。
母親という存在、母親の愛情、こんなに近くにあったはずなのに知らなかった世界…… 
彼が今まで忘れていたもの・見ようとしなかったものが、この瞬間一気に押し寄せてくるのだ。
そして動けないままの悟の姿に、僅かな希望が伺える。もちろん、映画はそれらを言葉では説明しない。
一つの部屋を抜群のタイミングで見せることで表現し、同時に見る人の心も打ってしまう。
最小限の作為で最大限の効果を発揮する手腕、そしてそのことで表わそうとした繊細な感情の揺れに、
竹馬監督を信頼したくなった。
この映画に潜んでいる数々の才能のかけらが監督の次回作にどう生かされるのか、期待せずにいられない。





蛇足ながら。
映画を見た“ニート”の一人が「ニートのことがよく描かれている」と言ったという。
それを聞いたとき、「それで?」と問い返してみたい衝動に駆られた。
この映画に、分かりやすい答えはなかった。だからこそ、この映画を見た人がどう動くのかを知りたくなる。
個人的に、ニートはのべつまくなし社会に出るべきだとか、ニートは悪だとか言うつもりはない。
この映画は、悟のような存在を世間に投げつけた。そして、その先は? 
優れた映画には、ただテーマを投げつけるだけで終わってほしくない。
これを見た人にどう働きかけるのかまでを追うことで、「今、僕は」は初めて完結する映画なのではないだろうか。