“いい映画”であることは否定しないけれど。「おくりびと」


おくりびと」(08)は、東京でチェロ奏者を目指す主人公が、所属先の楽団の解散で夢を諦め、妻と共に故郷の山形に戻るところから始まる。その地で主人公が出会ったのは、遺体を清め棺に納める納棺師という仕事だったのだが...... この映画は、何より納棺師という仕事が描かれている点が興味深い。主人公を演じる本木雅弘と、彼に仕事を教える山崎努の納棺の所作が独特で美しく、その浮世離れした流れるような動きに見る人はひきつけられる。そして、今まで知らなかった納棺師の視点から、死や葬儀、それを巡る人々を見つめることになるのだ。

 「おくりびと」は、そんな“いい映画”だ。でもそれは、心からしみじみと「ああ、いい映画だった」と思えるから、ではない。「もうこれは“いい映画”というしかない」という意味でだ。そもそも道徳的に複雑な問題を扱う映画には、良い悪いをいいにくい。死はそのひとつだ。死は尊いと同時にタブーであり、それを前にすると見る者は思考停止に陥りやすくなり、故に“いい映画”と言われやすくなる。この映画では更に、死を単に持ち上げたりヒューマニズムだけから描いたりするのではなく、生や食などと対比し笑いも添えて描いている。これも、“いい映画”たる方法としては間違えがない。その上、感動的な別れや再会の物語、美しい風景と音楽を交えれば、もう文句の付けようのない“いい映画”になるに決まっている。題材についてアイデアを出したのは実際に納棺師の仕事を目の当たりにした本木雅弘だというが、脚本を手がけたのは小山薫堂。「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」など数々の人気テレビ番組を手がけてきた放送作家だ。だからだろうか。この映画には、“いい映画” と思われるための放送作家的な手際を感じるのだ。


 例えば、チェロのきれいなイメージ。チェロは冒頭に登場し物語の中でも時々姿を見せるが、映画で主人公がチェロを弾くことに意味はほとんどない。挫折した夢と本意ではない納棺師の仕事との間で主人公が悩むわけでも、チェロが何かを象徴するわけでも、主人公が死者を追悼する意味でチェロを弾くわけでもない。映画の後半、突如チェロを川辺に持ち出し椅子まで用意した主人公が現れる。彼が演奏する姿に幾つかの葬儀の様子が重ね合わされ、さながらPVのようだ。ここは恐らく、美しいシーンなのだろう。しかし、戸外で楽器を弾く不自然さに加え、何故弾いているのか分からない。意味があるとすれば、“いい映画”的な画としての良さだ。チェロの必要があったとすれば、このシーンのためだろうかとすら思う。

 舞台が山形の田舎であることも不思議に思う。死には、様々な姿があるはずだ。現代社会では尚更だろう。しかしこの映画で詳細に描かれる葬儀の大半が、比較的大きな家の、畳の上での、家族が揃ったものである。ここに、舞台設定の理由があるように思えてならない。現代の死を描く振りをして、実は一定範囲内の死しか描いていない。映画の中の死は、さながらファンタジーだ。多少の例外はあるが、それも“いい映画”としての体裁を損なわない範囲に過ぎない。また、亡くなるのは殆どが女性だ。納棺を終えて帰ろうとする本木雅弘らを引き止め、残された夫が「妻をきれいにして納棺してくれた」とお礼を言うエピソードが続く。その内の一人は、「納棺された時の妻が、今までで一番きれいでした」などと、恐らく多くの妻をがっかりさせる科白まで言うのだ。さらに終盤では、「この人が亡くなると、話がキレイにまとまりそうだ」と思える人物が亡くなり、予定調和的に物語が進む。大多数の人が感動できるような、分かりやすく都合のいい、まさに“いい映画”的なエピソードが揃っている。きれいだが、薄っぺらい。
 

 主人公が納棺師として働き始める映画の前半には、死を様々な角度から捉えようとする試みがあった。しかし、それらはやがて頃合いを見て消えていく。

 たとえば、エロス。映画の冒頭、横たわる遺体を前に山崎努本木雅弘に「やってみるか?」言う。こう考えるのは私の想像力に問題があるのだろうが、私はこのとき山崎努が死姦を意味しているのかと思った。むろん「やる」というのは納棺のことで、本木雅弘は厳かに儀式を始める。だが遺体の下腹部に触れた彼は、困惑し山崎努に耳打ちする。続いて山崎努も遺体に触れ、遺族に確認する。一見女性に見えたその遺体は、男性だったのだ。この展開や、腐乱死体となった女性の納棺というヘビーな体験をした本木雅弘が、生きている妻の温かみをまさぐるシーンなど見ると、「やってみるか?」のダブルミーニングはあながち間違いではないように思う。けれど、冒頭から果敢だった割に、エロスについてはその辺りまで。

 次に、食。死とは正反対の、生きるための行為である食が所々に登場する。脂ぎったチキンや、鍋料理に酒。死と生を対比させる意味でも、食を織り交ぜるのはまさに“いい映画”的な選択だ。山崎努が食べていた白子はその最たるものだろうが、肝心なところで描写が物足りない。白子そのものや食べている様子がほとんどわからず、官能性などのメタファとして本気で見せたかったのか、疑問に感じた。そして食についても、この辺りまで。

 納棺師そのものについても、同じことだ。主人公が仕事先で感謝の言葉を受け納棺師に馴染み始めた矢先、古い友人から「まともな仕事ではない」と否定され、妻は「汚らわしい」とやや極端な言葉で非難され家を出る。いよいよ、納棺師そして死について掘り下げられるのかと思いきや、期待は裏切られる。妊娠をきっかけにあっさり妻は主人公の元に戻り、いつのまにか彼の仕事を許してしまうのだ。次に描かれるのは、何故か主人公と父親の再会物語。これを映画の着地点とするには疑問を感じるが、感動的ではある。この映画をうまく“いい映画”に仕立てるしめくくりだ。


 結局、死を巡って幾つかの視点が示されるものの、いずれも適度に“いい映画”を演出し終わると舞台を降りていく。そして、それまでの流れからは外れるが最高に“いい映画”感を演出するエピソードで、映画の幕が下りる。「おくりびと」は、“いい映画”を形づくるパーツをクセもなく逸脱もなく組み合わせて、見栄えのいいパッケージを施してできた“いい映画”。それだけのことだ。

 この映画が語られる際に、伊丹十三監督の「お葬式」(84)「たんぽぽ」(85)が引き合いに出されることがある。「お葬式」「たんぽぽ」で主役を務めた山崎努が「おくりびと」でも重要な役を演じているのだから、この2本を視野に入れていないと言ったら恐らく嘘だろう。伊丹監督の映画はまさに名作で、公開後20年以上経っても思い出されるように、これからも人々の心に残る。でも、「おくりびと」は残らない。“いい映画”であることを否定はしない。けれど、都合よく作られた“いい映画”を見た後に残るのは、せっかくの素材の良さを打ち消すあざとさなのだ。