*モントリオール映画祭は信頼できるのか?「誰も守ってくれない」

姿を消した少女を探し、街を走り回る男。
少女の行方を知る少年を見つけ、男は掴みかかって問いただす。
「彼女はどこにいる?」
「あっちのホテル……」
それだけ聞くと、男は少年を捨て“あっち”に向かって走り去る。
場面が変わり、いきなりホテルの廊下を走る男の姿。
突き当たりの一室に駆け込み、少女を見つける。…って、おい! 
「あっちのホテル」だけで何処か分かったのか? 
モントリオール映画祭脚本賞って、こんな脚本で獲れるのか?


「誰も守ってくれない」(09)は、凶悪事件の被害者家族保護が題材だ。
15才の少女・沙織(志田未来)の兄が、
突然逮捕されるところから物語は始まる。
容疑者の妹として沙織はマスコミから追求される恐れがあるという。
沙織の保護を命じられたのは、心に傷を持つ刑事(佐藤浩市)。
追っ手から逃れるために、二人の逃避行が始まるのだが…
監督は「踊る大捜査線」シリーズの脚本で知られる君塚良一
突然挟み込まれるカーチェイスや、
ちょっとスカした刑事を登場させるなど、
重いテーマを扱いながらも随所にエンターテイメントの要素がのぞき、
口当たりよく見られる作りになっている。


と、ここまでは認めるとしても、
「あっちのホテル」のようなツッコミどころが多いことも
認めなくてはいけないだろう。
女の子を保護するのが男性警官一人というのはありうるのか? 
沙織の見張りが
民間人(しかもフランス語で返事をする神経科医)でいいのか?
父親はどこにいった?
沙織が姿を消した時、「山に隠れる」「舟で海に出る」など
逃走経路の様々な可能性を捨てて、
刑事が一目散に車で街に探しに行くのは何故か?
オタクたちがわざわざ海辺のペンションまでやってきて、写真を撮るか?
 彼らが来られるくらいなのに、なぜ新聞やテレビが全く来ないのか? 
あのこと”を知っていたのなら、沙織の行動はおかしくないか?
などなど、脚本賞受賞の割に違和感を感じさせる箇所がいっぱいだ。

さて、
容疑者家族を追う新聞・テレビといったマスコミの姿は、どう描かれるのか?
映画の肝といっていい描写に期待したが、
テレビは容疑者宅に集まった大量のカメラと
車で執拗に追求した上にまんまと巻かれた程度、
新聞は骨のありそうな記者(佐々木蔵之介)があてがわれたものの、
終始風邪をひいていて
会社のパソコンでWEBサイトを見ているだけで役目は終了。
結局マスコミへの問題提起は、あ
りがちなネット批判にすり替えられてしまった。
テレビ局が製作しているから辛辣な批判はできないということなのかと、
うがってみたくなる。マスコミについて描くのならば、
この映画の製作環境にはあらかじめ矛盾があるのだ。
その上ネットの描き方がひどすぎる。
匿名だから悪口や名前住所は書き放題で、
炎上とかいうのも起こるんでしょ? というような、
「ネットにあまり接しない人が持つインターネットのイメージ」に
終わってしまっているのだ。ネット上の掲示板では確かに暴走も起こる。
けれどそれを諌める人々も確実にいて、
驚くようなバランスでその存在が保たれていることもまた事実だ。
映画のような生中継が行われれば、直ちに通報されるだろう。
それに、今どきパソコンから伸びる黒々としたケーブルが
ネットの恐ろしさを描写するのにふさわしいと思えないし、
スクリーンいっぱいにディスプレイに表示される文字が浮かぶ様子などは
呆れるほど紋切り型で、
“シビアな社会派”の雰囲気が台無しだ。
ネットの描写方法は軽卒だといわざるを得ない。


ドキュメンタリー的な効果を狙ったのかもしれないが、
時折スクリーンに現れる時間経過の表示には意味を感じなかった。
たかだか数日では終わらないこの問題に、
かりそめに時間を刻むなど無意味。
警察の言うことが真実なら、沙織の物語は一生続くはずだ。
けれど、必死に“マスコミの追求”から逃れていたはずなのに、
警察は映画のラストであっさり沙織を都内に戻してしまう。
一体いままでの苦労はなんだったのだ?
 

おくりびと」の受賞も疑問だったが、
「誰も守ってくれない」の受賞もまた
大いに疑問を感じるモントリオール映画祭
果たしてこの映画祭は、信頼に値するのだろうか?
リアリティのない展開と検証不足のままネットを悪者にして
「人を守るということ」を説かれても、空疎なだけだ。
見たあと心に残るのは、積もり積もった違和感と、
志田未来のきりっとした佇まいだけだった。