*地味だけど手堅く光る「青い鳥」

主役である新任教師が、学校にやってくる。
けれどカメラは、歩道を歩く足先やバスで本を読む手元、
廊下を歩く後ろ姿を映すだけで、彼の正面をすぐに見せない。
まるで、「ヒーロー登場!」といった感じの演出だ。
教師の顔は、教室について生徒たちと対面する時に、
初めて映し出される。
ヒーローである彼が一体どんな活躍をみせてくれるのかと、
嫌が応にも期待が高まるイントロだ。


映画「青い鳥」の原作は、
最近相次いで映画化されている重松清の小説。
いじめが原因で自殺未遂したクラスメイトが転校し
新学期を迎えるクラスに、阿部寛演じる教師がやってくる。
事件をなかったことにしようとする学校や生徒に対し、
彼はあくまで事件のことを忘れないよう説く。


なぜ彼がそのようなことをするのか、
どのようにしていじめはいけないことだと伝えるのか。
見る側はその答えを待っている。手ぐすねをひいて。
そんなところに、先ほどのような演出だ。
自ら上げたハードルを、うまくクリアできるのか?


映画は、オーソドックスだが誠実に作られている。
派手なことがおこらず、
対立も和解も会話によって行われるこの物語を、
無闇に回想シーンなど入れず真っすぐに撮る。
クライマックスすら教師と生徒の会話なのだが、
ここも淡々とアップの切り返しのみで見せる。
アップだけで充分に見せられたのは、物語の力か役者の力か。
そのどちらもだろう。
教師の回答も俳優の演技も、
自らハードルを上げた期待感に充分耐えうる回答を用意してくれる。
 

このシーンでの
阿部寛の相手になる生徒を演じるのは、本郷奏多
彼の顔は、何故だか映る度に見入ってしまった。
耳からあごにかけてのラインが、輪郭が定まっていないような
不思議な線を描いている上、
陽射しに透けるカーテンの白に溶けてしまいそうなのだ。
なんとない思春期独特の危うさを感じてしまった。
 

映画の最後、教師は再びバスに乗って本を開き、
学校から遠ざかって行く。
冒頭で学校にやってきた先生が帰っていく姿で終わる。
物語の文法としても間違えのない演出。
地味な中にもきちんと光るものを持つ、手堅い映画だ。


…ところで、重松清の小説は本当によく映画化されているが
その作られ方も様々だと改めて思った。
大林監督の「その日の前に」と比べると、
同じ作家による物語とは思えないほどの違いだ。
「青い鳥」のように解釈された
「その日の前に」が作られる可能性も
ないわけではなかっただろう
それは なんだかとても真っ当な映画になりそうだ。
けれど、今となっては「その日の前に」と言われれば、
あの自由自在なサンプリングと
どんどん青いペンキで塗られていく壁が思い浮かんでしまうのだから
困ったものだ。